三原屋の創業は嘉永元年(1848)と伝えられています。
嘉永元年といえば、8,300人の死者を出した弘化の善光寺地震の翌年で、
自家醸造の味噌醤油を災害支援に供出したことが今日の始まりのようです。
初代河原新作は、萬延元年(1860)に善光寺御門前の阿弥陀院町に店舗を構えますが、
明治2年(1869)に現在の櫻小路を三原屋本店としました。
櫻小路は鬼無里・戸隠方面に続く大町街道の起点にあたる交通の要衝で、
大豆・麻・紙・炭などの物資の集積地です。
運送業者の活動拠点である馬方茶屋があり商業の町として栄えていました。
また、敷地の一部は大字長野字御殿という地籍になっていますが、
ここは松平忠輝公屋敷跡地で、店舗の大黒柱と沓脱石は越後高田城に縁のものであると伝えられています。
明治4年(1871)の廃藩置県により長野県が誕生、
櫻小路は善光寺の枝町であったことから桜枝町という地名に変わります。
当時の人口は8,000人余りでしたが、長野県庁(現在は信州大学教育学部)をはじめ、
水内郡役所(地方事務所)や松本裁判所長野支庁などの官庁が界隈にできました。
官吏のお客様は今日の転勤族で、米と一緒に味噌や醤油も買い求めてくれたようです。
味噌は必要最低限の備蓄品であり、守るべき我が家の味とも考えられていたため、
味噌を買うことは恥と考えられていた時代のことでした。
明治26年(1883)に信越線が全線開通します。
この頃になると長野市人口3万人を超え、商品として味噌を購入する人々が増えてきました。
明治32年(1899)に米蔵を改築しますが、
相場で一喜一憂する米穀商の商いを縮小し、
味噌醤油の醸造業に転換を図るための布石であったと思われます。
明治38年(1905)、日露戦争で3代目河原清之助が亡くなり、
初代新作が家業を再び取り仕切ります。
大正12年(1923)に関東大震災が起こり、
味噌の出荷先が長野市だけではなく首都圏を含めた全国に広がりました。
大正15年(1926)に、祖父の4代目河原信三が米穀商を廃業して、
味噌醤油醸造を本業とする新しい時代が始まりました。
祖父は軍人として出征していたため、醸造蔵は親類の人々によって守られていました。
幸い醸造蔵は空襲による戦災を免れましたが、
土蔵の鉄格子等は全て供出されました。精米所の土蔵の壁には、当時を偲ばせる防空ポスターが残されています。